セメント樽の中の手紙〜1年「国語総合A」
5時間めは1年2組の「国語総合A」の授業を見学しました。今日は、葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」、担当は藤井先生です。
プロレタリア文学といえば小林多喜二の「蟹工船」が有名ですが、同じ時代に生きた葉山嘉樹の作品は、プロレタリア文学の範疇を越えて、読み手に無限に広がる想像の余地を孕んでいるように感じさせられます。
「セメント樽の中の手紙」は、僅か3,000字ほどの文字に筆者の籠められた想いが、「釘づけされた」小箱の中に詰まっていて、とても奥行きの深い読み応えのある作品だと思いました。
その想いは、赤いセメントになった恋人への純粋な愛に生きる女工の手紙を、毎日セメントまみれになって働く松戸与三がボロを解き開くことによって、ようやく世間に解放されます。とても凄惨な出来事と一緒になって。
生徒に配付された「読解線引きプリント」は、本文の言葉の一つひとつに注視して設問が並んでいます。中には、読み手の想像力に委ねられていて答えが1つに定まらない問いもあるように思いました。
「私の恋人の着ていた仕事着の切れを、あなたにあげます。」
この一文はどんな意味があるのでしょう。漢字二字を当てはめるのであれば、どんな言葉がピタッとはまるでしょう。とても深くて難しい問いです。
先生は、「連帯」「御礼」という2つの異なる言葉を当てはめられました。なるほどです。私はもう少し違う言葉を探していました。粉々になってセメントになった恋人の居場所を追い求める女工の想いはそれでは済まされない気がしたからです。返事をくれようとくれなかろうと、そのボロ切れはただのボロではないことを伝えたかったのではないかと思いました。「粉々になった体を包んでいた仕事着なのですよ。クラッシャーの中で粉砕されずに唯一残った生きた証なのですよ。だから大事にしてください。」と、女工の「執念」「情念」のような強い念を感じていました。
先生の「連帯」という言葉を聞いたとき、私の感じた「情念」のさらにその向こうに「連帯」があると思いました。大正から昭和初期の労働環境は劣悪そのもので、実際に自らセメント工として働き、その間に仲間を失ったことや、労働組合を作ろうとして、その運動が発端となって投獄された経験を持つ筆者のやり場のない憤りを「連帯」により昇華させたかったのではないかと、ここにプロレタリア文学としての読み方があるんだなぁと思いました。とても勉強になります。
先生の発問はまだまだ続きます。授業の終わりの方になって、先生は改めてみんなに尋ねられました。
「そもそもこの話は実話だと思いますか。それはなぜそう思うのですか。」
鋭い質問でドキッとしました。時間があれば、グループで話し合って生徒みんなの意見が聞きたい所です。
1人の生徒が答えました。「実話を少し盛ったように思います。」
生徒たちはよく頑張っています。私もよく考えました。ありがとうございました。